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恩師の思いで(学先生)

 自分は大学ではサイクリング部に入り、自転車でいろんなところを旅していました。自転車に熱中したのは小学校の頃の恩師、学先生の影響です。

 小学校3~4年生の担任だった学先生は型破りです。いつも人民帽を被っている、指導要綱は守らない、悪いことをすると棒で尻をたたく。今だったら問題教師と言われるでしょうね。でも、生徒みんな学先生が大好きでした。先生の考えている第一番が生徒のことだったから。その真剣さがとてもよくわかったから。そして、そのことがみんなうれしかったから。

 学先生は小学校から車で1時間弱のところから自転車で通勤していました。山を越えるところだし、多分、片道2時間はかかったんじゃないかな?毎日そんなこともできないので、平日は学校の宿直室に泊まり込み。近くの生徒の家で風呂を借りていたみたいです。自分の家にも何回か来ました。週末になると生徒を集めてサイクリングに行きました。夏は近くの川まで行き、水遊びです。冬は多分校庭でドッジボールやら、公園でなんかの遊びやらに連れて行ってもらってました。クラスの1/3くらいがいつも来ていたかな?自分も休まず参加していました。

 掃除の時間は自分だけ宿直室に呼ばれて囲碁を打たされました。当時は「なぜ自分だけ?」と思っていたし、友達からも「あいつだけずるい!」なんて言われていたけれど、学先生なりの英才教育のつもりだったんだろうと思います。今なら「えこひいき」とか言われていじめなんかに遭いそうだけれど、昭和50年代の田舎は平和なもので、そんな嫌な思い出はなかった。

 小学校4年生の国語の授業は反戦をテーマとした、たった一つの物語文を徹底的にたたき込まれました。その物語が「反戦」というのはその後に思ったこと。学先生の口から「反戦」なんて言葉は聞いた記憶がない。その点は思想を無理矢理作らないという本人なりの縛りがあったんだと思う。ともかく1年間、ほんの10ページしか学先生は国語の授業を進めなかった。

 学先生は悪いことをするとグラスファイバーの棒で尻を叩く。これ、ミミズ腫れになって、椅子に座るのも痛いくらい。痛くない方の尻で椅子に座って授業を受けた記憶があります。今から考えると、出来不出来に関係なく、男どもはできるだけ平等に叩いていた記憶がある。女の子は多少控えめだったろう。これについて、当時も今も恨み節はないです。親たちもそんなの当然と受け止めていたんじゃないかな?

 当時の自分は頭でっかちの小生意気なガキで、本に書いてあることがすべてだと信じていました。学先生は自分に「自分の目で見て、肌で感じたものを信じろ」と教えたかったのだと思います。川の楽しさと怖さ、雪合戦の冷たさと痛さと熱狂、ヤゴ取りやビー玉、甲子園での応援の熱狂。理屈ではない、生身で得た記憶は絶対にリアルで自分にとって唯一正しい事だと言うことを教えてくれました。この経験がなければ、今の自分はもっと悪い&恥ずかしい自分にしかなれなかったのだと思います。

 

 鑑定士としての自分はありとあらゆる事を疑ってかかります。依頼者の言葉は裏がとれなければ信じないし、鑑定基準ですら疑ってかかります。建築図面だって、その通りに作られているなんて信じてはいません。自分で見聞きしたこと以外は必ず裏をとる作業をして、それが自分の持つ常識や経験から考えて正しいかどうかを考えます。自分は不動産鑑定のプロで、仕事に対して報酬を得る職業なのだから、ただただ「鵜呑み」ではなんともなりません。今の自分が少なくとも実体験で不動産の価値を人に話せるのは恩師として学先生がいたからだと思います。言葉遊びではなくて、「本当に学ぶこととはどういうことか」を真剣に教えてくれた恩師でした。

 

 余談ですが、学先生は学校では問題のある先生として扱われていたようです。僕たちが担任を離れた後は低学年の担任に回され、その後にどこか別の小学校に赴任させられました。更にその後は教師を続けているかどうかもわかりません。自分が5年生にあがり、学先生が担任をはずれるときに、先生は家に来てくれて泣いてくれました。今までの人生の中で、大の大人が、人のために本気で泣く姿を見たことはありません。自分も、大人になって人のために泣いたことはありません。涙の重さを知った今だから当時自分のために泣いてくれた学先生の真剣さを思い知ります。

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